2020年6月ベートーヴェンという生き方〈1〉

光の街ボンとベートーヴェン

ベートーヴェンが生まれ育った街ボン。より良き世界への憧れを宿した彼の音楽と人生は、この街が育くんだといえるかもしれません。両者の切っても切れない関係を探ります。

 

宮廷都市の音楽家

ベートーヴェンハウス入口 ©Michael Sondermann/Bundesstadt Bonn

ベートーヴェンハウス入口
©Michael Sondermann/Bundesstadt Bonn

 「闇から光へ」。ベートーヴェンを語る際に、必ず引き合いに出されるキャッチフレーズだ。耳の病と闘いながら、音楽の世界に革命をもたらした彼の生き方を見ると、たしかにそのとおりだろう。
 ただしこうした姿勢は、何もベートーヴェンひとりが発明したわけではない。むしろその原点は、彼が産声をあげたボンにある。
 ボンは今でこそ、ライン河畔にたたずむ小都市にすぎない。第二次世界大戦後、ドイツが東西に分かれていた時代には西ドイツの首都だったが、ドイツ再統一後はすっかり注目度が低くなってしまった。ただし、ベートーヴェンが生まれた当時は違った。何しろ「ケルン大司教/ケルン選帝侯」なる仰々しい称号の貴族が、宮廷を構える街だったからである。
 ヨーロッパでは、宮廷といえば音楽が付き物だ。ベートーヴェン家も、祖父の代からボンの宮廷に仕える音楽家一族として名をはせ、若き日のベートーヴェン自身、この街の宮廷音楽家としてキャリアを築いてゆく。

 

「太っちょマックス」来る

マクシミリアン・フランツ (オーストリア大公)

マクシミリアン・フランツ
(オーストリア大公)

 そんなベートーヴェンが、14歳を迎えることとなる1784年。ケルン大司教/ケルン選帝侯に、新たな人物が即位した。
 彼こそは、マクシミリアン・フランツ・フォン・エスタライヒ。舌をかみそうな長い名前からも想像できるように、名門中の名門貴族、オーストリアを中心に中央ヨーロッパのほとんどを支配していたハプスブルク家の直系に当たる。
 そんな畏れ多い存在にもかかわらず、彼は「太っちょマックス」という名前でボンの人々に親しまれた。何しろ彼は教育改革、経済改革、福祉改革等々を推し進め、市民の人気をさらった。
 18世紀後半、このように上からの改革をおこなった君主を、「啓蒙君主」という。「啓蒙」とは、闇の中に置かれてきた市民階級に光を与え、彼らが社会の新たな担い手として活躍できる状況を作り出そう、という考え方のこと。それを、市民を支配してきた側の貴族がおこなったのだから、衝撃的だった。

 

啓蒙君主が出現した理由

光を導きいれるヨーゼフ2世の寓意画

光を導きいれるヨーゼフ2世の寓意画

 なぜ、そんな貴族が出現したのか?それは、都市に住む商人や手工業者=市民の生産活動が増し、彼らの力を無視できなくなったためだ。
 代表例が、「太っちょマックス」の実兄である皇帝ヨーゼフ2世。「女帝」と呼ばれるマリア=テレジアの長男という由緒正しい身分の貴族でありながら、市民向けに数々の改革を断行した。
 ヨーゼフ2世は、1790年に志半ばで病死する。ボンで宮仕えをしていたベートーヴェンは悲報を受け、彼の死を悼む大声楽曲を書いた。しかもそれから15年後、彼はこの曲に使ったメロディの一節を、オペラ『レオノーレ』(後に『フィデリオ』と改作)へ転用する。
 このオペラ、無実の罪で囚われていた政治家が勇気ある妻によって解放される、という内容だ。まさに「闇から光へ」の理念に貫かれ、ベートーヴェン晩年の『交響曲第9番』にも通じている。だがそのルーツは、既に彼のボン時代に遡れる。さらには彼が仕えたボンの君主やその親族が、そうした光溢れる世界を実現させようとしていたことにも。

 

ベートーヴェン映像トラベル①「生地ボンの魅力」

ベートーヴェン・グッズめぐり①「笑う人形」

笑うベートーヴェン人形  ©Giacomo Zucca/Bundesstadt Bonn

笑うベートーヴェン人形  ©Giacomo Zucca/Bundesstadt Bonn

笑うベートーヴェン人形 
©Giacomo Zucca/Bundesstadt Bonn

ベートーヴェン生誕250周年を祝い、各地で様々なグッズが作られています。そんな中から、お家でも楽しめるものを厳選してご紹介!第1弾は「笑うベートーヴェン人形」です。

 ご覧ください。このベートーヴェン人形、笑っています。ベートーヴェンというと、「怖~い顔」が思い浮かびますが、完全に真逆です(笑)。
 ベートーヴェン自身、人を感動させる崇高な曲だけを作っていたわけではありません。例えばシュヴェンケという友達に対しては、自ら作詞も手掛けて、『ふざけ(シュヴェンケ)ずにこちらを向け(シュヴェンケ)』なる歌を書いています。まさに、ダジャレの英雄といったところ。
 ちなみに、昨年撮影されたこの写真をよ~く見ると、人形がびっしり置かれている広場の奥には、1845年に建てられたベートーヴェン記念像があります。例の怖い顔つきのベートーヴェンで、当時はこうしたイメージが人気だったのですね。
 でも、それはもう150年以上前の話。今の時代、色々なイメージのベートーヴェンがあってもOKでしょう。なおこの笑うベートーヴェン人形、像を製作したヘールという人が、自分のホームページで販売しているのでした。グッド・ジョブ!

 

 

教えて小宮先生!①

みなさんから届いた質問に小宮先生がずばりお答えする、題して「教えて小宮先生!」
いただいたご質問へのお返事は12月までの間、よきタイミングで公開します。みなさんもドシドシご質問くださいね。

 

フック船長さんからのご質問:
今年はベートーヴェンの生誕250周年ですが、日本に比べてヨーロッパの偉人はその死後も生誕◯周年と祝われることが多いように感じます。何か理由はあるのでしょうか?

 これは、ヨーロッパ文化に大きな影響を与えたキリスト教…さらにはそのルーツであるユダヤ教と密接な関係があります。
 ユダヤ教では50年に1度、恩赦や解放がおこなわれる「ヨベル(Yovel)の年」なるものがありました。ちなみに「ヨベル」とは、この特別の機会を人々に告げ知らせる角笛のこと。「記念年=ジュビリー(Jubilee)」の語源でもあります。
 さらにヨベルの年を基に、西ヨーロッパを中心に興隆したキリスト教=カトリックでは、「聖年」という考え方が生まれました。これは50年に1度、ローマへの巡礼者に特別の許しが与えられる、という内容です。
 有名な人物の誕生年や没年を50年毎に記念するという習慣の背後には、こうした宗教的な伝統があるのですね。

アップルパイさんからのご質問:
かの有名な「エリーゼのために」には何故ベートーヴェンはOP番号をつけずにWoO番号なのでしょうか?

 ベートーヴェンの作品には、主に2つの異なる番号が与えられています。「Op. ○○」と「WoO ○○」ですが、たしかにややこしいですよね。
 「Op.」とは、「Opus(オーパス=作品)」の略記。これは元々、出版社が自分のところで売り出している音楽家の作品に、勝手に番号を割り振ったものです。ベートーヴェンはそれを出版社任せにせず、自分で取り仕切ろうとしましたが、中途半端に終わってしまいました。
 それ以外の作品については、後世の研究者が番号を振りました。それが「WoO」、つまり「Werke ohne Opuszahl(ヴェルケ・オーネ・オープスツァール=オーパス番号のない作品)」。彼の死後40年あまりして初出版された『エリーゼのために』も、その1つです。