2020年8月ベートーヴェンという生き方〈3〉

耳の病がもたらした発想の転換

気鋭の音楽家として、ウィーンで活躍を始めたベートーヴェン。そうした最中、耳の病に襲われ始めた彼は、その後の人生をどのような発想で切り開いていったのでしょうか?

 

衝撃的な耳の病

作曲のためにピアノを用いるベートーヴェン

作曲のためにピアノを用いるベートーヴェン

 「耳の状態がおかしい!」…ベートーヴェンにとって、それがいかに衝撃的だったかは想像にあまりある。
 何しろタイミングが悪かった。1792年にウィーンへ出てきて以来、優秀な音楽家の集まるこの国際都市で苦節5年余り、ようやく頭角を現してきた頃だった。しかも彼は、優秀なピアニストとして自らを売り出していた。
 ところが、当時のピアニストは他の音楽家と共演をおこなう場合が多かったから、大問題である。劇場で催される演奏会の場合は、オーケストラを指揮しながら華麗なピアノ協奏曲を奏で、聴衆の関心を惹き付ける必要があった。サロンの集いであっても、室内楽のアンサンブルにピアノで参加するのが習わしだった。
 そのような機会が、耳の病によって次々と奪われてゆく。フリーの音楽家としてウィーンで活動していたベートーヴェンにとって、これは経済的にも社会的にも死活問題だった。追い詰められた彼が、自殺すら考えたのは有名な話である。

 

演奏活動から作曲活動へ

18世紀の補聴器

18世紀の補聴器

 にもかかわらず、ベートーヴェンは過酷な運命に負けませんでした…、で話をまとめてしまうのは、あまりに雑だろう。実のところ彼の凄さは、耳の病という現実の中で、見事なまでの発想の転換を成し遂げたところにあるのだから。
 それまでの音楽家は、演奏活動のかたわら作曲活動もおこなう、というスタイルが一般的だった。ベートーヴェンの先輩格にあたるハイドンもモーツァルトも、現在では「作曲家」と見なされているが、生前はむしろ「作曲もできる演奏家」だった。
 ところが耳の病を得たベートーヴェンは、当前のように守られてきたこの習慣を打ち破る。つまり、演奏ではなく、作曲をメインとした活動へ切り替えた。しかも彼が創り出す曲は、後年になればなるほど、演奏活動に心血を注いでいる者でなければ手に負えないような水準を具えてゆく。
 「演奏家」と「作曲家」の棲み分け。現在では当たり前のこの習慣を始めた人物こそ、ベートーヴェンだった。

 

ベートーヴェンならではの作風の確立

ハイリゲンシュタットの遺書の家 ©WienTourismus/Paul Bauer

ハイリゲンシュタットの遺書の家
©WienTourismus/Paul Bauer

 そうでなくても、耳の病に襲われたベートーヴェンは、今までになかった作風の曲を手掛けるようになる。特に1802年、ウィーン郊外でしたためられた「ハイリゲンシュタットの遺書」前後から、この傾向は顕著となってゆく。
 ピアノ・ソナタ第14番「月光」、交響曲第3番『英雄』、オペラ『レオノーレ』(後に『フィデリオ』と改作)…。ベートーヴェンの代表作というだけでなく、ベートーヴェンといえばこれ、といったイメージを強烈に具えた作品が、次々と生み出されていった。
 1802年といえば、ベートーヴェンがウィーンを活動の拠点とするようになって10年。いつまでも同じようなスタイルの曲を発表していたのでは、刺激に慣れっこになっているこの街の人々から飽きられてしまうのは明らかだった。
 となれば、本当に新しい内容の曲を書くにあたっては、作曲活動に集中して取り組む以外ない。耳の病という不可避の状態を逆手にとって、ベートーヴェンはそれをしたたかなまでに実現した。

 

ベートーヴェン映像トラベル➂「ハイリゲンシュタットからの再出発」

ベートーヴェン・グッズめぐり③「ワイン」

  • ベートーヴェン・ワイン2020©Weingut Wien Cobenzl

    ベートーヴェン・ワイン2020©Weingut Wien Cobenzl

  • コベンツル伯爵の屋敷の庭

    コベンツル伯爵の屋敷の庭

 

 ベートーヴェン生誕250年を祝い、各地で様々なグッズが作られています。そんな中から、お家でも楽しめるものを厳選してご紹介!第2弾は「ベートーヴェンワイン2020」です。
 有名な遺書をしたためたハイリゲンシュタットをはじめ、ベートーヴェンがよく静養に訪れたのがウィーンの森の一帯。ウィーンの森といえばブドウ畑があって、そこから採れるワインが有名。そして大のワイン好きだったのが、何を隠そうベートーヴェン…。
 というわけで、ウィーンの森の近くで作られるワインには、「ベートーヴェン」の名前を被せたものが、これまでも幾つか出ています。あるいは「ベートーヴェンゆかりのワイン酒場」を自称する店まで、ちらほらと。
 というわけで、ベートーヴェンを記念する今年に新手のベートーヴェンワインがウィーンで出ないわけない…と思っていたところ、やっぱり出ました!「ウィーン ベートーヴェン 2020」と、直球勝負そのもの。
 ワインを作っているのは、ウィーンのワイン製造者の中で比較的大手の「コベンツル」。面白いのはブランドの名前が、よくあるように製造者の苗字ではなく、地名に由来している点でしょう。
 コベンツルは、ウィーンの森にある小高い丘の1つです。元々は「ライゼンベルク」と呼ばれていたのですが、18世紀後半にこの地を手に入れた伯爵の姓にちなんで、今のような地名になったとか。このコベンツル伯爵ですが、山の斜面に立派な屋敷を建てるいっぽう、庭園は一般開放し、荘園も経営していたそうです。
 伯爵が1810年に亡くなると、土地は売りに出され人手を転々としますが、今ではその一画に「コベンツル」のワイン製造所と直営レストランがオープン。ウィーンの森とドナウ河を一望できる、人気スポットです。
 というわけで、ベートーヴェンと直接の繋がりは何もないワインといえども、さすがはコベンツル。大体あのコベンツル伯爵も、荘園で獲れた野菜や果物をウィーンに売りに出しては収入を得ていたそうです。商売上手の魂の遺伝ですね(笑)。
 なおワインで使われているブドウは、オーストリアを代表するすっきり辛口タイプの、グリューナー・ヴェルトリーナーです。

 

教えて小宮先生!③

みなさんから届いた質問に小宮先生がずばりお答えする、題して「教えて小宮先生!」
いただいたご質問へのお返事は12月までの間、よきタイミングで公開します。みなさんもドシドシご質問くださいね。

 

たけしさんからのご質問:
 普通の人が作曲する場合は、ピアノなどで音を確認しながら作曲すると思うのですが、耳の聞こえないベートーベンはどうやって作曲したのでしょうか?
 頭の中で和音が響いてそれを音符に表したのでしょうか?その音が正しいかどうかを聞いて確認する事もできないのですよね。

 たしかにベートーヴェンは耳の病を得て以降、ピアノの音を何とか聴き取ろうとしました。ピアノの譜面台の位置にスピーカーのような形の箱を取り付け、音を少しでも強めようとしたり、自分の頭に棒を押し当てて、ピアノの音を骨伝導で捉えようとしたり。(有名なラッパ型の補聴器は会話用で、楽器を聴くためのものではありませんでした。)
 それでも職業音楽家として活躍する以上、ピアノで⾳を確認しなくてもある程度まで作曲ができたのはたしかでしょう。例えば現在でも、優れたシンガーソングライターは、指の感覚だけでギターの弦を押さえて即興演奏をおこないます。それと同じくベートーヴェンも、和声や旋律に作り方のイロハを徹底的に習熟しており、頭の中だけで曲を作れたのです。

なでがたさんからのご質問:
 同じ時代を生きたハイドンやモーツァルトと比較すると、ベートーヴェンの作曲した交響曲が9曲と少ないのはなぜでしょうか?ピアノ・ソナタは32曲、弦楽四重奏曲は16曲と、ハイドンやモーツァルトと同程度とは言わないまでも多くの作品を残していますが、単純比較はできないとはいえ交響曲は少ないように思います。
 のちの作曲家に「第九のジンクス」として影響を与えていることから、9という数字は非常に大きな意味を持っているので、なぜ9曲だったのか、先生のお考えをお聞きしたいです。

 交響曲は元々、舞台の開幕を告げる序曲から生まれたオーケストラ曲です。しかもオーケストラ自体、18世紀までは貴族にやとわれた音楽家から成っており、そのリーダー格が雇い主の命令を受けて曲を書いていました。ところが19世紀に入ると、オーケストラは貴族の独占物ではなくなり、音楽家も自立してゆきます。貴族が軽い気持ちで曲を音楽家に書かせる機会も減りました。
 そんな時代を生きたベートーヴェンは、ライト級のジャンルだった交響曲に様々な実験や思想を持ち込み、ヘビー級に仕立てます。結果、1つの交響曲にかける手間が膨大になり、曲数も少なくなりました。ちなみに彼自身は、「第九」完成後も『交響曲第10番』の構想を持っていたようですが、その死によって実現しませんでした。