2020年9月ベートーヴェンという生き方〈4〉
ベートーヴェンとナポレオン
革命精神の体現者として登場したナポレオンに心酔した末、その期待を裏切られて大いに失望したと伝えられるベートーヴェン。実際のところは、どうだったのでしょうか?
あの有名なエピソードは本当か
『英雄』タイトルページ
耳の病と闘いながら、1804年に書き上げられた畢生の大作『交響曲第3番』。ベートーヴェンは、この新作をナポレオンに捧げるつもりだったところ、当のナポレオンがフランス皇帝に即位してしまう。報せに激怒したベートーヴェンは、献辞を書いていた表紙をびりびりと引き裂き、燃え盛る暖炉にくべてしまった…。
ベートーヴェンとナポレオンの関係を語る時、必ずといってよいほど引き合いに出されるエピソードである。だがこれ、かなり眉唾ものの話らしい。何しろ献呈先を記した表紙は、直筆の完成譜とともに、今もウィーンの楽友協会資料館に保管されている。真相は、「ボナパルトに捧げる」と書いてある箇所が、ごしごしと削られて穴が開いているだけ。
しかも、ベートーヴェンはこの事件の後も、ナポレオンへの期待を完全に断ち切ったわけではなさそうだ。何しろ、1807年に完成された『ミサ曲ハ長調』の献呈先を、一時はナポレオンにしてはどうかと考えていたほどである。
ナポレオンへの共感はどこまで
1809年のウィーン攻撃
所蔵:Masayasu Komiya
ベートーヴェンとナポレオンは1歳違い。ナポレオンの方が兄貴分であり、また両者が直接顔を合わせることはなかったものの、ともにフランス革命に始まる変革の時代を象徴する存在である。
ただし、「自由・平等・友愛」の精神を、強大な軍事力を用いて広めようとするナポレオンの姿勢に、ベートーヴェンがどこまで共感していたか。それについては、不明な部分も多い。むしろ連載の第1回目にも書いたように、徳のある君主の下、新興勢力である市民階級にも配慮した社会が創り出される状況を、ベートーヴェンは理想としていた。
となると、逆にベートーヴェンにとって、ナポレオンがフランス皇帝に即位した出来事は、そこまで目くじらを立てるような話だったのか。何しろナポレオン自身、革命精神を実現するという錦の御旗の下に頭角を現しただけのことはあり、自らを「フランス人民の皇帝」と称したほど。私は皆さんあっての君主ですよ、という下手の姿勢である。
言動不一致への失望感
皇帝に即位したナポレオン
それでもやはり、ナポレオンに対するベートーヴェンの熱は冷めていったようだ。彼が各地で繰り広げた戦争で、ベートーヴェンと懇意にしていた貴族が戦死したり、疎開を余儀なくされたりしたのもその一因。
さらにナポレオン率いるフランス軍が、1805年と1809年の2度にわたって、ベートーヴェンの本拠地だったウィーンを占領した。革命思想の伝搬を掲げ、領土拡張を目論むナポレオンにとってみれば、名門皇家ハプスブルク家の都ウィーンを攻めることは、二重の意味で美味しかった。
だがフランス軍がウィーンでおこなったのは、革命云々の高邁な理想とは関係のない、単なる略奪暴行だった。特に1809年の占領の際には、凄まじい軍事攻撃が実行され、ベートーヴェン自身、ウィーンの別の場所にいた弟の家の地下室に避難したほど。こうしてウィーンでは、言動がまるで一致しないナポレオンに対する失望感が、特に彼に期待していた市民階級を中心にすっかり定着してしまったのである。
ベートーヴェン映像トラベル④「ナポレオンとウィーン」
ベートーヴェン・グッズめぐり④「エプロン」
ホールスタッフが着用してみました!
ベートーヴェン生誕250年を祝い、各地で様々なグッズが作られていますが、そんな中から、お家でも楽しめるものを厳選してご紹介!第4弾は「ベートーヴェンエプロン2020」です。
“Music can change the world”…、かっこいいですね。「音楽は世界を変えられる」。しかもこの言葉が載せられているのは、エプロン!レンジの炎の前で、新たな料理が創り出されてゆく様は、さながら情熱的な作曲家のベートーヴェンのようです。
あしらわれているロゴは、「BTHVN 2020」。これは、ベートーヴェン・イヤーに当たってボンに創設された株式会社の名称です。Beethovenという横文字のつづりから “e”と“o”の母音を抜いて、bthvnになるという仕掛け。しかも、単なる言葉遊びでは終わりません。これらのアルファベットをそれぞれ頭文字に置いたコンセプトを5つ立てて、ベートーヴェンのメッセージを現代に伝える企画を応援してゆこうという狙いです。
ではその心は?Bonner Weltbürger=ボンの生んだ世界市民、Tonkünstler=音楽芸術家、Humanist=ヒューマニスト、Visionär=先見者、Naturfreund=自然保護者、としてベートーヴェンを捉えなおそうというもの。部分的にはちょっと苦しい所もありますが(笑)、ベートーヴェンを過去の偉人として奉るのではなく、現代へのメッセンジャーとして捉えようとしているあたり、さすが!
…というわけで、日常生活に欠かせないエプロンにもベートーヴェンを登場させたということなのでしょうね。ちなみにこの姉妹編として、ミトンもあり、それらを使って料理をすれば、あなたもすっかりベートーヴェン気分!?
ただし実を言うと、ベートーヴェンの作った料理は、激マズだったみたいです(笑)。彼の家に招かれた友人の証言によれば、散々待たされた挙句、煙でこれでもかと燻されたようなものが出てきて、飲み込むのも一苦労だったとか。料理を作ったりふるまったりすることへの情熱と、その結果とがうまく噛み合わなかったのですね。
でも逆に言えば、ベートーヴェンには何よりも音楽があり、音楽を通じて人を感動させられた、というわけでしょう。だから、このエプロンをつけて万が一料理に失敗しても大丈夫!文句を言われたら、“Music can change the world”と言い返してあげましょう。
教えて小宮先生!④
みなさんから届いた質問に小宮先生がずばりお答えする、題して「教えて小宮先生!」
いただいたご質問へのお返事は12月までの間、よきタイミングで公開します。みなさんもドシドシご質問くださいね。
織原幸一さんからのご質問:
第5番と第6番の交響曲の初演の時に、先に発表されたのが第6番と聞いたことがあります。また、この初演のプログラムは盛沢山すぎて、演奏者が疲れ果て、結果としては惨憺たるものだったと聞いています。
実際はどうだったんでしょうか?
また、この演奏会の評判はどのようなものでしたか?
この演奏会は、その後どのようなところに、どのような影響を及ぼしたのでしょうか?
演奏会後の反響などを踏まえ、トータル的には成功の演奏会と考えてよいのでしょうか?
お尋ねの演奏会は1808年12月22日におこなわれたもので、音楽家が自作自演をおこなうというワンマンショウ的なものでした。なおこの時、交響曲の第6番は第5番として、第5番は第6番として演奏され、出版の際に現在の番号に変更されています。
当時のヨーロッパは、ナポレオンとの戦争の真っただ中。ウィーンでも暖房資材が足りず、劇場は極寒の状態でした。出演した劇場のオーケストラも、練習をほとんどせずに本番にのぞむという当時の習慣にしたがったため、ベートーヴェンの実験的な新作を満足には演奏できませんでした。というわけで演奏会そのものは失敗でしたが、最後の最後に合唱団が出演して全体を華々しく終えるというスタイルは、後に「第九」として大きな実を結ぶのです。
りくさんからのご質問:
ベートーヴェンがナポレオンを一時にしろ敬愛し、後に失望したことはよく語られていますが、ナポレオン本人はベートーヴェンのことを認知していたのでしょうか。知っていたとすれば、どの程度の情報を得ていたのかも含めて、お教示賜れればと存じます。
ナポレオン自身、音楽の才能はほとんどなかったようですが、音楽そのものは好きでした。ただしお気に入りの作曲家はというと、残念ながら同世代のベートーヴェンではありません。彼よりも30歳ほど年上で、18世紀後半のイタリアを中心に一世を風靡したパイジェッロという人物です。(実は若き日のベートーヴェンも、パイジェッロのヒットオペラの有名ナンバーの旋律に基づいて、鍵盤楽器用の変奏曲を作っています。)
このように、政治や軍事における革新性とは裏腹に、ナポレオンの音楽の好みは保守的でした。というわけで、ナポレオンはベートーヴェンの名前こそ知っていたかもしれませんが、その革新的な音楽に興味を抱くことはありませんでした。