2020年11月ベートーヴェンという生き方〈6〉

ウィーンの有名音楽家ベートーヴェン

孤高の姿勢を貫くあまり、世間の無理解に晒されながら孤独な人生を送ったと言われるベートーヴェン。ところが実際の彼は、生前においてもつとに知られた存在だったのです。

 

人々の注目の的として

ベートーヴェンの葬儀

ベートーヴェンの葬儀

 ベートーヴェンの伝記を読むと、最後に必ず書いてある。1827年3月におこなわれた彼の葬儀には、20,000人もの人々が集まった…。
 昔は、この記述が何とも不思議だったものだ。というのも大方の伝記には、ベートーヴェンは終生世に受け入れられなかった、といったたぐいのことが記されているからである。つまりそんな人物の葬儀に、それほど大勢の参列者が訪れるものなのか?
 ところが、ベートーヴェンの生涯をつぶさに見てゆくと、けっしてそうではなかったことが分かる。誰にも理解されない作曲家だったどころか、好きな人にとってみればたまらなく好きな存在。もちろんその斬新な作風は、時に激しい毀誉褒貶を巻き起こしはしたものの、逆にそれが人々の注目を呼び覚ますこともしばしばだった。
 まただからこそ、ベートーヴェンにとっては可能だった。耳に病によって演奏活動の道を絶たれた後も、作曲活動にのみをおこなう音楽家として独自の道を切り開いてゆくことが。

 

ナポレオンの失脚に乗って

ナポレオンを追い払いウィーンへ凱旋する皇帝フランツ 所蔵:Masayasu Komiya

ナポレオンを追い払いウィーンへ凱旋する皇帝フランツ
所蔵:Masayasu Komiya

 とりわけ1810年代の半ば、ベートーヴェンは有名音楽家としての頂点を極める。きっかけは、「宿敵」ナポレオンがロシア遠征の失敗を機に敗北を重ねていったこと。
 例えばナポレオンは1813年、スペインのヴィトーリアで、ウェリントン将軍ウェルズリー率いるイギリス軍に打ち負かされる。この出来事を知ったベートーヴェンは、新曲を書き上げた。題して、『ウェリントンの勝利あるいはヴィトーリアの戦い』。
 間もなくウィーンで行われた初演は、大成功を収める。というよりもこの曲は、ベートーヴェンの生前、最大級の人気作品となった。
 翌1814年には、ナポレオンに煮え湯を飲まされてきたオーストリアをはじめとする国々が、パリへ侵攻。万策尽きたナポレオンが島流しにされたという報せがウィーンに伝えられると、またしてもベートーヴェンは作品を発表する。『良き報せ』という歌芝居のトリを飾る『ゲルマニア』という合唱付き行進曲で、こちらも大好評を博した。

 

ウィーン会議の人気者

ウィーン会議

ウィーン会議

 さらに同年、ナポレオン後のヨーロッパについて話し合うべく、ウィーンで国際会議が開かれた。いわゆる「ウィーン会議」である。
 この会議、自国の利益を主張するヨーロッパ各国の意見がまとまらず、「会議は踊る、されど進まず」という名文句?が生まれたことでも有名だ。つまり、舞踏会をはじめとする夜のアトラクションこそ盛んなものの、昼の会議は紛糾し通しという揶揄に他ならない。
 ただし、全体を取り仕切っていたオーストリアの外務大臣メッテルニヒにとっては、アトラクションの充実も会議の成功に不可欠だった。会議がもめればもめるほど、それをクールダウンできるのはアトラクションだったからである。
 というわけで、アトラクションの盛り上げにあたっては、ベートーヴェンにも何度もお声がかかった。『栄光の瞬間』『ヨーロッパ解放』『成就せり』…。有名音楽家ベートーヴェンという意外な一面が、今や忘れられてしまった数々の作品に刻まれている。

 

ベートーヴェン映像トラベル⑥「国際会議の街ウィーン」

ベートーヴェン・グッズめぐり⑥「ヴュルフェル」

ベートーヴェン・ヴュルフェル ©Ströck/Lukas Lorenz

ベートーヴェン・ヴュルフェル
©Ströck/Lukas Lorenz

ベートーヴェン生誕250年を祝い、各地で様々なグッズが作られていますが、そんな中から、お家でも楽しめる?ものを厳選してご紹介!第6弾は「ベートーヴェン・ヴュルフェル」です。

 お菓子の街といえばウィーン、ウィーンといえばベートーヴェン…。というわけで、ベートーヴェン関係のケーキが、ウィーンで発売されないわけがありません。
 正式名称は、「ベートーヴェン・ヴュフェル」。ヴュフェル=サイコロ風の四角い形をし、その表面には、例の有名な肖像画でお馴染みのベートーヴェンの顔が薄いチョコレートに印刷されて載せられています。といっても、オリジナルの肖像画ほど怖い表情ではないのがミソ。何しろ「食べられる肖像画」なので、少しだけマイルドな顔つきにしておかないと、誰も口に運ばなくなってしまいそうです。(笑)
 さ~て肝心のケーキの中身はというと、ウィーンを代表するチョコレートケーキとして有名な「ザッハー・トルテ」の味を基本に、コーヒーの香りを加えたもの。コーヒー好きだったベートーヴェンをイメージした、というところなのでしょう。実際ベートーヴェンは、自ら豆をきっちり60粒計り、それを轢いてコーヒーを淹れていたそうです。豆の煎り方にもよりますが、とっても苦い!
 また、ケーキの味のベースとなっているザッハー・トルテですが、こちらはザッハーという人物が考案したものです。ザッハーは、ウィーン会議の立役者でもあった政治家メッテルニヒに仕えていた料理人で、彼の要望に応えて作ったケーキが後にザッハー・トルテとして有名になりました。チョコレートをふんだんに使った上、中にアンズのジャムを挟んだ甘い味わいゆえ、糖の甘さを中和させるために、砂糖なしのホイップクリームと一緒に食べるのが通。いずれにせよ、こちらも強烈です!
 ちなみにこの新製品の発売を予定しているのは、オーストリア中にチェーンを構える「シュトレック」とい製菓会社。ただし限定販売となっており、ウィーン市内の10店舗のみで手に入れられるそうです。ヴュルフェル=サイコロを振るよりも、ベートーヴェン・ヴュルフェルに出会えるほうが、確率が低かったりして…。

教えて小宮先生!⑥

みなさんから届いた質問に小宮先生がずばりお答えする、題して「教えて小宮先生!」
いただいたご質問へのお返事は12月までの間、よきタイミングで公開します。みなさんもドシドシご質問くださいね。

 

あの時助けたカメさんからのご質問:
 「シューベルトは憧れのベートーヴェンに生涯会う事は無かった」と言う様な事がよく本に書いてありますが、有名作曲家2人が同じウィーンに居ながら1度も会っていないと言うのは本当でしょうか。その理由が分りませんが、、、。
 一方では「ベートーヴェンはシューベルトを大変可愛がっていた」と書いてある物もあります。どちらが事実なのでしょうか? 又、ベートーヴェンがシューベルトについて言及したものはどの位あるのでしょうか。よろしくお願いします

 1827年、死の床にあったベートーヴェンをシューベルトが見舞った、という話は、シューベルトの友人の証言もあり、信ぴょう性が高いと言われています。ただし、それにさかのぼる1822年、シューベルトがベートーヴェンを訪問して初の面会がおこなわれた、という件については、疑問視されています。というのも、ベートーヴェンの晩年に無給の秘書をやっていたシンドラーという人物がこのエピソードを伝えているのですが、シンドラーには虚言癖があり、どこまでが本当か分からないからです。
 そもそもベートーヴェンとシューベルトは、ウィーンに住む音楽家ということでは共通していましたが、交友関係が異なっており、直接的な接点はほぼありませんでした。それでもシューベルトは1819年以降、ウィーン楽友協会の演奏会にヴィオラ奏者として参加していました。しかも当時この協会のオーケストラ演奏会では、年に2回ほどベートーヴェンの作品が取り上げられていました。というわけで、そのような演奏会のリハーサルや本番で、2人が出会った可能性はあります。
 というわけですので、ベートーヴェンがシューベルトを可愛がっていた、という可能性もきわめて低いです。シューベルトの作品については高く評価していたようですが、実はそれもシンドラーが言っていることですので、完全に信頼していいものやら…!?